観察力を高めるとてもシンプルな方法があります。
それは観察映画を観ることです。
観察映画とは
観察映画とは、映像作家の想田和弘(そうだかずひろ)さんが提唱・実践する、台本や事前のリサーチ、ナレーションや音楽などを使わないドキュメンタリーの方法論・スタイルです。
想田さんの著書『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』では次ように記されています。
僕は、撮影前に題材に関するリサーチを行わず、台本を書かず、被写体との打ち合わせを排し、目の前の現実を観察しながら、基本的にひとりで行き当たりばったりでカメラを回している。そしてそのような方法論で撮った映画を「観察映画」と呼んでいるが、それは安全で予定調和的なドキュメンタリーの作り方から脱却し、先の見えない「冒険」としてのドキュメンタリーの原点に立ち返ろうとする試みである。
想田さんはその昔、とある番組制作の編集を終えて試写した際、編集マンがミキサーのボタンを押し間違えたせいで、ナレーションと音楽抜きの状態で、自分の番組を観ることになります。
最初間違いに気づいたとき、僕は編集室から席を外していた編集マンを呼び寄せて、ミキサーのボタンを押し直してもらおうかと思った。しかし、結局最後までそのまま観続けた。なぜなら、ナレーションと音楽を抜いた自分の番組は、不思議な喚起力があって、奇妙にも面白かったからである。
想田さんは、「この体験が観察映画を志すきっかけにできたのは、フレディック・ワイズマンの映画を観ていたおかげである」と記しています。
ワイズマンの映画には、ナレーションも、音楽も、説明テロップも、何も無い。ただひたすら、カメラの目の前に展開する現実を映像と音で描写するばかりである。映画の題名も、『病院』とか『軍隊』とか『福祉』という具合にシンプルの極致で、説明的な要素が一切無い。そうした所作からは、『オレからは何も説明しないよ。観る人が勝手に解釈してくれ』というワイズマンのそっけない声が聞こえてきそうな感じである。にもかかわらず、彼の映画を観ながら、僕は全く飽きることがない。むしろ、目と耳と頭がギンギンに冴えて、食い入るように観てしまう。そしてそれは、逆説的に聞こえるかもしれないが、彼が説明を一切しないからのように思えた。
このようなスタイルが効果的に機能するためには、撮れた映像素材そのものに、ナレーションなどの”添加物”を付けなくても鑑賞に堪えうる「力」や「美しさ」があることが前提になる。説明をせず、なおかつ観客の興味を引きつけておくには、映っている内容が面白いことはもちろん、その面白さを的確に表現できる高度な映像的技術が必要になる。
観客を信頼する
想田さんは、目と耳と頭がギンギンに冴えるその状態のことを「観客の観察眼が起動する」と表現します。
観察眼が立ち上がった観客は、同時に能動的でもある。つまり「自分の目で見定めよう」とする。そしてワイズマンの映画には、それを邪魔するナレーションや音楽がないので、観客は自由に映像と音を感じ、解釈し、思考を喚起させられる。だから観る人の感じ方によって、同じ登場人物が悪人に思えたり、善人に思えたり、そのどちらでもない人のように思えたりもする。映画に対する感想も実に多様になる。
ワイズマンのこうした姿勢を一言で言えば、「観客を信頼する」ということであろう。
想田さんは、ミキサーのボタンの押し間違えというアクシデントをきっかけに気持ちが変わっていきます。
失敗してもいいから、一生に一度でいいから観客を心から信頼して、ナレーションや音楽やテロップのないドキュメンタリーを作ってみたいな。
そして2007年、日本の過酷なドブ板選挙に密着した観察映画第一弾『選挙』が公開され、想田さんは国内外で高い評価を得ることとなります。
現在、想田さんは日本を代表する映像作家として、世界で活躍されています。
『選挙』は私にとって最高の映画でした。
私は『選挙』を観た直後、25年前、大学生の頃、映画館でスティーブン・スピルバーグ監督の『プライベートライアン』を観て「銃弾が自分に当たるかもしれない」という恐怖に震え上がったときのことを思い出しました。
スピルバーグ監督は、映像と音響の技術を駆使して、観客を戦場に放り込み、戦争がどれだけ怖いものなのかを伝えました。
想田さんの観察映画も同様に「その出来事を体験(目撃)する」ことができました。
これをお読みになっている皆さん、是非このあとすぐに『選挙』を観てみてください。
観終えたあと、「ほんまや」と言っていただけると思います。
そして、これまで普通に観てきたテレビのナレーション等を駆使したドキュメンタリー番組の多くが、添加物にまみれていることがわかり、観察力に磨きのかかった自分を感じられるのではないかと思います(『選挙』を観たあとは、必ず2013年に公開された『選挙2』もご覧になってください。めちゃくちゃ為になって、面白いです)。
コーチの「聴く」は相手を観察すること
さて、コーチの皆さんはコーチングをおこなうとき、クライアントの話を「聞く」ではなく「聴く」ことを心がけていると思います。
「聞く」は(受動的に)自然に耳に入ってくることで、「聴く」は(積極的に)目も使い心を込めて耳を傾け、相手を観察することです。
想田さんは「観察すると自分も変わる」と記しています。
「観察」という行為は、一般に思われているように、決して冷たく冷徹なものではない。観察という行為は、必ずといってよいほど、観察する側の「物事の見方=世界観」の変容を伴うからだ。自らも安穏(あんのん)としていられなくなり、結果的に自分のことも観察せざるを得なくなる。
観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない。
観察は、自己や他者の理解や肯定への第一歩になり得るのである。
私がコーチングを知ったのは2015年、それからコーチングを受け、コーチングを学びました(資格は取得していないので、コーチではありません)。
仕事はホームページを制作することで、クライアントとのコミュニケーションにおいて、学んだコーチングを活かしています。
コーチの知り合いは100人を超え、仕事も含めてですが、毎日のように全国のどこかのコーチと連絡を取っています。
想田さんが、ドキュメンタリー映像におけるナレーション、音楽、説明テロップなどを添加物と表現した際、「ホームページ制作における添加物とは何だろうか」「コーチングにおける添加物とは何だろうか」と考えさせられ、まだはっきりとした答えは見つかっていません。
ただ、想田さんが記した「観察すると自分も変わる」という文章を読んだときは、「だから私は、勤勉で心優しいコーチのことが大好きなのだな」と確信することができました。
追伸
観察映画『選挙』には、2022年10月24日に経済再生担当大臣を辞任した若かりし頃の山際大志郎(やまぎわだいしろう)さんが様々なシーンで写り込みます。
撮影されたのが2005年の秋なので、大臣を辞任する17年前の山際さんの姿、仕事ぶりを見ることができます。
山際さんは、大臣を辞任した4日後の10月28日、自民党の新型コロナウイルス等感染症対策本部長に就任し、更迭直後の要職抜擢に対し、野党のみならず党内からも疑問の声が上がりました。
そして11月8日、コロナ対策本部を管轄する政務調査会の萩生田光一会長は、自身の判断で、山際さんを本部長に就任させたことを明かします。
このドタバタ劇ともいえる出来事については、『選挙』を観ることで、「まぁ…まぁ….そうなるかぁ…ふむぅ…しかしなぁ…ふむぅ…くふぅぅぅ…」といった感情を抱くことができます。(なんやそれ)